阪神大震災より22年(あの時の関西圏部外者)
今晩は。日付が変わり、2017年の1月17日になりました。旧五大都市の一角、〇〇〇〇からお送りしています。
書き出すと色々と‥光GENJI諸星かーくんや、つらら(氷柱)のことなど考えたりをするも(大した内容無く浅い思い)、1月17日ですから5時46分になる前に、神戸市民よ淡路島、西宮、尼崎、芦屋、伊丹、宝塚他大阪府西端等の阪神諸都市民よ、あの時の事は今でも忘れてへんぞーと伝えたいです。
1995年(平成7年)1月17日(火)05時46分。神戸から100km弱離れた京滋地区に居ました。当時は2〇歳位か、大学生でした。眠れずに起きてたんです、真冬だから飼犬を勝手口に入れてあげてて、犬が屋内で遠吠えをする‥余計眠れへんよなあ。
あれは本当に長かった、5時46分か 神戸から距離があるから家の辺は47分か‥。横揺れと縦揺れで1分位かもっとかな、先に強い横揺れが続いた後ドーン、ドーンと怖すぎる縦の突き上げがあった。
ああいう時はどうしていいかわからない、親を起こそうと思って廊下をつかまり歩いたが 怖くてちょっとしか移動できない。二回地面から突き上げた時、家の梁がバキッと強く鳴った、折れたと思ったから「おいっ、家壊れんぞー!」と別室の親に叫んでました。
関西は、というか西日本全体は本当に油断していたと思う。それ以前の記憶としては小学生の時かな、震度4くらいのしか記憶になかった。
1980〜90年代中期迄は関西では本当に地震に関連した記憶はない為本当に突然起こった事だった。
しかし、あの時も直近にロサンゼルスで震度6くらいの地震があって高速道路か橋かが倒壊して日本でも大きく報じられていましたが、日本の建築技術では高速道路などが倒壊崩壊する事は起こりえない、と言われていました。日本ではそのロスの地震の様な大きな被害は出ない、とも。
対岸の火事に同情しつつも、日本の耐震建築技術でロスの高速道路を建てていさえすれば、最大の地震でも絶対に倒壊しなかったものを、と。
だから1994年末から1995年の年始はそんな意識で、防災グッズも家具の固定も何にもしていなかった。天災に備えて危機意識を保持したりという事は、今と較べるとなおざりだった、と思う。
関係あるかないか、私達は運転にシートベルトは使わなかったし、災難や病気等に備えた予防防御行動及び意識に対しては、「ビビりか?」「根性無しか?」「心配性か?」と強がりとハッタリの現在で言う処の意識低い系くんが当時はとても多かった気がする。時代背景で脱線しましたm(__)m
‥それで、親に叫んだあとの事ですが、当時、テレビラジオしかない訳でしたが、関西のNHKも民放もしばらく震源地とか重要情報が判らない。せいぜい京都大阪が震度5乃至4、朝7時頃まで判然とせず、なんかはっきりせんからまた寝ようなどと軽口をたたける心持ちでは全くなかった。当時の私達、関西に居住せる全関西兵は心底びびっていた。(筈だ)
真冬の早朝で夜明け前で、テレビのある部屋がとっても寒かったのにずっとテレビで確認しようとしていました。7時をまわってからか、NHKで神戸が震度7だとようやく判明して(だったはず)、「神戸や!」と叫んだ。
関西テレビだったか、同じく7時を回ってから深江(神戸市東灘区)の阪神高速の横倒しと帝産バスのあの間一髪の映像が出て、私達は驚愕した。それからNHKで神戸が燃えている映像が出て、
それから私達は3月下旬の地下鉄サリンまでずっと驚愕し続け、何度も涙ぐむことになる。
(比較的若い世代にとっては)すべてが初めての経験だった。昭和天皇が崩御されたあの昭和64年の時以来の事で、地震直後から関西ではかなり長い期間テレビはCMをやらず、笑いに関する娯楽番組はあっても 笑わせることをやってはいけなかった。あの時、神戸淡路阪神間諸都市を心に想い、関西兵は一般人も芸能人も笑う行為は不謹慎でいけない事だった。(と記憶しています)
ちょっと長い様なので後半を設け、ここ迄を前半としました。お疲れ様で御座居ました。